松平容敬

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松平容敬(会津藩8代藩主):概要 松平容敬は享和3年(1804)、水戸藩6代藩主徳川治保の次男である徳川保友(松平義和)の3男として誕生しました。文化元年(1804)、父親が高須藩(美濃国石津郡高須:現在の岐阜県海津市)8代藩主松平義居の末期養子となり松平義和に改称して9代藩主に就任、一方会津藩では5代藩主松平容頌が文化2年(1805)に享年62歳で死去、続く6代容住は同年に享年28歳で死去、7代藩主は容住の次男容衆が継いだものの僅か3歳という年齢でした。そこで、当時の会津藩家老職を担っていていた田中玄宰は藩存続の危機と感じ、義和と図り容敬を容衆の異母弟として極秘裏に引き取り幕府に届け出ました。容衆は文政5年(1822)、享年20歳で死去、嗣子が無かった事から容敬が末期養子として8代藩主に就任し、くしくも田中玄宰が講じた策が当たったといえます。先代まで3代の藩主に仕えた田中玄宰の藩政改革が一応の成果を挙げ、容敬の時代には多少の蓄えが出来る程の回復を見せましたが天保に入ると次第に天候不順による凶作が続き、特に天保4年(1834)は大凶作となり急速な財政悪化を招きました。

容敬も年貢の軽減や救済米の供出、借金の一部免除、価格統制、株仲間の解散、緊縮財政、質素倹約などの策を講じましたが、根本解決には至らず、さらに弘化4年(1847)にアメリカ東インド艦隊司令官ビッドルが日本の開港を求めた(失敗)事を受け、一層の海上、沿岸警備が求められ、会津藩(本城:鶴ヶ城)も江戸湾防備を担当する事になり、さらなる財政が悪化しました(当時、西洋砲台技術の最先端を担った江川太郎左衛門に藩士一瀬大蔵を派遣させ技術を習得させた)。一方、会津藩の権威が高まり、海防問題で会津藩に意見を求める機会が増え幕末の悲劇に進む事になります。官位は文政8年(1825)に左近衛権少将、文政10年(1827)に正四位下左近衛権中将に叙任しています。嘉永5年(1852)死去、享年47歳。

松平容敬が会津西街道(下野街道)を利用したのは記録上1回で文政10年(1827)に参勤交代で江戸の勤務が終了しその帰国の際に利用しています。2代藩主保科正経の終盤以降、会津藩の参勤交代は白河街道と定められた為、参勤交代で会津西街道(下野街道)を利用したのは初代の保科正之7回と2代正経が11回、8代容敬が1回と僅か3人しかいません。その他には鶴ヶ城の城下町に鎮座している蚕養国神社の社殿を藩祖保科正之が造営した形式に基づき文政2年(1819)に再建しています。


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