土方歳三(戊辰戦争)

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土方歳三(戊辰戦争):概要 最終決戦場を日光山を想定していた旧幕府軍川治温泉2千2百名は宇都宮城(栃木県宇都宮市)周辺に布陣、新撰組も同調したものの近藤総長が捕縛され、以後、副長である土方歳三が隊を指揮し、それと同時に旧幕府軍の軍参謀として一翼を担いました。慶長4年(1868)4月19日明朝、土方率いる旧幕府軍別働隊1千名が城下に火を放ちながら進軍し宇都宮城に立て籠もる新政府軍と交戦、一進一退を繰り返しながらも有利に戦況が推移し、夕方には新政府軍が宇都宮城から撤退し勝利を収めました。4月23日、体制を整え援軍を得た新政府軍が宇都宮城を奪取すべく進軍し激しい攻防戦が繰り広げられ宇都宮城は落城、その際、松が峰門を守っていた土方歳三は被弾して戦線を離脱し今市宿(栃木県日光市今市)に移送されています。4月24日、土方は同じく負傷した秋月登之助(会津藩士、伝習第一大隊の隊長)と共に10数人の旧幕府軍に護衛されながら会津城下に向けて会津西街道(下野街道)清水屋を北上しています。田島宿までの行程は不詳ですが、会津西街道沿いにある川治温泉の薬師の湯では土方歳三が入湯し傷を癒したとの伝承が残っている事から、川治温泉の湯屋などで宿営したと思われます。川治温泉は泉質がアルカリ性単純泉で特に怪我に効能があるとして「傷は川治、火傷は滝(現在の鬼怒川温泉)」と詠われている事からも傷を負った土方にとってはうってつけの温泉だったのかも知れません。

4月26日には痛めた足を引きずりながらも新撰組隊士6名(島田魁、中島登、畠山芳二郎、松沢乙造、漢一郎、馬丁沢忠助)と共に田島宿にある田島陣屋に到着し、4月29日には秋月登之助が手配した会津城下七日町の清水屋に入り松本良順の治療を受けています。案内板によると「・・・・松陰が会津を去ってから16年後に戊辰戦争がおこります。会津を去ってから16年後に戊辰戦争がおこります。会津と運命を共にした新撰組副長土方歳三は宇都宮城の攻防で足を負傷し、会津を経て「清水屋」に運び込まれ治療を受けています。土方はその後、函館五稜郭まで転戦し西軍と徹底的に戦い続けたのです。・・・・会津若松観光協会」とあります。


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土方歳三の傷の治療は会津若松でも続けられ、城下に近く、会津藩の保養所でもある東山温泉(福島県会津若松市東山町大字湯本滝ノ湯)でも湯治を行っています。東山温泉にある猿の湯の岩風呂は土方歳三戦傷湯治の旧跡とされます。

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会津西街道(下野街道):歴史・伝承・伝説
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