本陣(大内宿):概要 本陣とは大名や公家、幕府役人など身分の高い人物が参勤交代や領内巡視などで当地を訪れた際に宿泊や休息に利用する施設の事で、会津西街道(下野街道)は江戸時代初期に会津藩(福島県会津若松市)をはじめ、米沢藩(山形県米沢市)や村上藩(新潟県村上市)、新発田藩(新潟県新発田市)の藩主が参勤交代で利用した為、その宿場町である大内宿にも本陣や、本陣に順ずる脇本陣が設置されました。会津藩では距離的に大内宿では宿泊せず、休息のみの利用で、初代藩主保科正之と2代藩主保科正経が昼食を摂った事が記録に残されています。
しかし、江戸時代中期以降、会津西街道(下野街道)が参勤交代として利用されなくなると、本陣としての役割が薄くなり、問屋としての生業が重視され問屋本陣とも呼ばれるようになり、江戸時代後期には本陣家は衰退、阿部家(美濃屋)が事実上の本陣的な役割に担っています。
大内宿では多くの民家が街道に対して妻面の屋根を正面とし、敷地の間口も限定的ですが、本陣のみは敷地間口が広く建物も平側の屋根を正面としています。基本的に本陣には一般庶民が利用する事が出来ず、建物の意匠も厳しく定められていて、一般的な本陣には、身分の高い人物しか利用出来ない、御成御門(表門・大内宿の本陣に門があったのかは不詳。)や式台付の玄関、上段の間などが設置される事が義務付けられました。
又、本陣を維持管理するのには莫大な費用が必要な為、各藩の保護を受ける一方で宿場の有力者がその職を歴任しました。大内宿の本陣は既に失われ、図面などの記録も残されていない事からどの様な間取りや外観をしていたのかは不詳ですが、大内宿と同じ会津西街道(下野街道)の宿場町で本陣の遺構が残されている、糸沢宿(福島県南会津郡南会津町糸沢)の阿久津家住宅(国登録有形文化財)と、記録が残されている川島宿の本陣を参考に復元が図られています。
建物は木造平屋建て、寄棟(煙り出し付)、茅葺、平入、式台付の玄関に入母屋の玄関屋根、外壁は真壁造り、白漆喰仕上げ、腰壁は下見板張り縦押縁押え、上段の間には床の間、違い棚、書院付、欄間は細格子、その他にも中の間や次の間と呼ばれる座敷や、格式の高い雪隠(便所)や風呂が設置されていました。
大内宿本陣・写真
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