会津西街道(下野街道)と大内宿

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会津五街道:概要 寛永20年(1643)保科正之が山形藩(山形県山形市)会津西街道(下野街道・会津鶴ヶ城)20万石から会津藩23万石で入封すると、領内の整備や開発が行われ、その中で交通や流通を担う街道整備も行われました。会津藩の藩庁、藩主居館が設けられた会津鶴ヶ城から見ると、城下町の北西方向の大町一之町の四つ角が起点となり、会津西街道(下野街道)白河街道二本松街道米沢街道越後街道が放射状に配され、四つ角は「札の辻」 と呼ばれ制札場が設置されました。上記の五街道は会津五街道と呼ばれ正保4年(1647)頃には各宿場町の整備が完了し、慶安2年(1649)には「本道五筋」として江戸幕府に報告が行われています。白河街道は会津城下から猪苗代湖の南側を迂回しながら奥州街道の白河城下(福島県白河市)に至る街道で、江戸時代中期以降は会津西街道(下野街道)に変わり参勤交代で利用された重要な街道で、太閤豊臣秀吉が会津入りした時も、白河街道が利用されました。二本松街道は会津城下から猪苗代湖の北側を迂回しながら奥州街道の二本松城下福島県二本松市)に至る街道で、会津西街道(下野街道・札の辻)会津藩主保科家、松平家の聖地で初代藩主保科正之の霊廟である土津神社(福島県猪苗代町)と、会津鶴ヶ城の支城である猪苗代城(福島県猪苗代町)の城下町を結んでいました。米沢街道は会津城下と米沢藩の本城である米沢城(山形県米沢市)の城下町を結ぶ街道で、江戸時代初期は米沢藩主上杉家が参勤交代で利用し、戦国時代には伊達政宗が会津侵攻を行った街道でもあります。越後街道は会津城下と、新発田藩の本城である新発田城(新潟県新発田市)を結ぶ街道で、新発田藩と村上藩は越後街道を利用して参勤交代を行い、日本海側の海産物や塩などが会津領内に持ち込まれました。又、街道筋に流れる阿賀野川は舟運が発達し多くの物資が行き交いました。

会津西街道(下野街道):概要 会津西街道(下野街道)は会津城下と日光街道会津西街道(下野街道)(奥州街道小山宿から日光東照宮を結ぶ街道)の今市宿(栃木県日光市)を結ぶ街道で総延長約32里(約132キロ)、道幅2間(約3.8m)、江戸時代当初は会津城下と江戸まで5泊6日と最短距離で結んでいた為、会津藩をはじめ、上記の米沢藩、村上藩、新発田藩が参勤交代で利用していました(白河街道を利用するより1日短縮)。又、会津藩の主要物流経路でもあり、領内の年貢米を江戸廻米として会津西街道(下野街道)を利用して江戸まで運んでいました。延宝8年(1680)、江戸幕府が主要五街道(東海道、日光街道、奥州街道、中山道、甲州街道)の利用を促すと共に、脇街道の利用を制限した為、脇街道だった会津西街道(下野街道)は参勤交代での利用は無くなり、政治的な重要性は大きく損なわれました。天和3年(1683)の日光大地震により、街道沿いにある男鹿川の氾濫と土砂崩れが発生し、会津西街道(下野街道)の街道筋が壊滅的な被害を受け、特に、男鹿川が堰き止められた事で五十里湖が出現し、宿場町の1つ五十里宿は完全に湖底に沈みました。これにより、会津西街道(下野街道)での物資の輸送が不可能となり、会津西街道(下野街道・八幡のケヤキ)元禄8年(1695)には3代藩主松平正容が新たに松川街道(会津中街道:会津城下と奥州街道:氏家宿を結ぶ街道)が開削されました。享保8年(1723)に再び会津西街道(下野街道)が整備され通行が可能となりましたが、米や葉煙草などの物資の流通の一部が引き続き松川街道が利用された為、往時程の往来ではなかったとされます。江戸時代末期の会津戊辰戦争の際には新政府軍の会津侵攻経路となり、街道筋で多くの激戦が繰り返され、各宿場町も大きな被害を受けています。明治維新以後、街道制度が廃止になると、本陣や問屋、関所などの機能も失われ、さらに、明治17年(1884)に日光街道(会津三方道路)が開削されると会津西街道(下野街道)の利用が激減し大内宿をはじめ各宿場町も衰退していきました。

会津西街道(下野街道)を利用した著名人 会津西街道(下野街道)の街道沿いには幾つか伝説が残され、会津西街道(下野街道・大内宿)真偽は判りませんが幾つか紹介します。一番知られているのは大内宿に伝わる高倉以仁王(後白河天皇の第3皇子)が平家打倒の画策が失敗し、陸奥、越後に逃れたという逃避伝説で、大内宿の鎮守である高倉神社には以仁王の御霊が祭られています。中山峠に位置する「八幡のケヤキ」には平安時代後期に行われた前九年合戦の際、源義家が当地に着陣し手植えした伝えられています。糸沢宿に位置する龍福寺には源義経が奥州平泉(岩手県平泉町)に下向する際に当地を通過し、義経の家臣が龍福寺を開山したの伝承が残されています。歴史が明確なものとしては、戦国時代に伊達政宗が小田原参陣の際に会津西街道(下野街道)を利用し、大内宿まで来てから一端本領に引き返し、日本海側に抜けてから小田原を目指し、豊臣秀吉が奥州仕置きで会津入りを果たした際には、帰路は古文書などから会津西街道(下野街道)を利用したと推察され、街道沿いには秀吉に纏わる伝説も残されています。関ヶ原の戦いの際には徳川軍が会津西街道(下野街道)を利用して上杉領に侵攻する経路となりうる事から、会津西街道(下野街道・大内宿)街道沿いには随所に城塁が設けられ、既存の城郭は大規模な改修が行われた為、上杉家執政の直江兼続が施設の視察を行ったとされます。江戸時代には幕府巡見使に随行した古川古松軒が大内宿と田島宿で宿泊し、その時の様子を「東遊雑記」に詳細に記載、幕末には吉田松陰が東北遊学の際に会津城下から日光東照宮(栃木県日光市)に向う際に田島宿に宿泊し、「東北遊日記」に記載しています。明治時代初期にはイギリス人女性紀行家イザベラバードが会津西街道(下野街道)を北上し、今市宿、藤原宿、五十里宿、川島宿大内宿(美濃屋)で宿泊し著書である「日本奥地紀行」で街道や宿場の様子が詳細に表現されています。


大内宿:町並み・写真
会津西街道(下野街道・大内宿)
大内峠一里塚・写真
会津西街道(下野街道・一里塚)

大内峠一里塚大内峠一里塚は会津西街道(下野街道)の難所の一つ大内峠に位置する一里塚で会津鶴ヶ城の「大町札の辻」から五里の距離があります。街道の両側に塚が残される数少ない一里塚の遺構として貴重な存在です。

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