大寺宿(慧日寺)概要: 大寺宿は二本松街道の宿場町と同時に慧日寺の参拝道でもありました。地名である大寺も慧日寺が古代から中世にかけて当地方を代表する巨大寺院(大寺)だった事に起因しています。江戸時代に入り二本松街道が開削されると宿場町の1つとして整備され、特に会津城下に薪炭材を供給する集積地として発展しました。
又、会津城下と猪苗代城(亀ヶ城)下の中間に位置し、阿賀野川や日橋川舟運、米沢街道の宿場町として栄えた塩川宿への分岐点、難所の1つ明ル坂も控えていた事もあり交通の要衝としても重要視され経済的にも賑わいました。
慧日寺・概要: 慧日寺の創建は大同2年(807)、名僧として知られた徳一大師によって開かれた名刹です。徳一大師は慧日寺を拠点として勝常寺や円蔵寺(柳津虚空蔵尊)などを開山した事から慧日寺は古代から中世にかけて会津地方における仏教の中心地として寺運が隆盛しました。
最盛期には寺僧300人、僧兵数千人、支院3800カ寺を擁する大寺院となり大きな影響力を持ちましたが源平合戦に介入し平家方に与した為に一時衰退します。中世に入ると再興され、領主である芦名家の庇護もあり再び隆盛しましたが天正17年(1589)の伊達政宗による会津侵攻の兵火により堂宇が焼失し、庇護者だった芦名氏も常陸国に逃れた為に衰微しました。
江戸時代に入り再興されますが、往時には及ばず、さらに明治時代初頭に発令された神仏分離令とその後に吹き荒れた廃仏毀釈運動により廃寺に追い込まれ、明治後期に再興しています。現在でも数多くの寺宝を所有し旧慧日寺跡は昭和45年(1970)に国指定史跡に指定されています。
二本松街道:宿場町・再生リスト
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