坂下宿:歴史・概要

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概要・歴史・観光・見所

坂下宿(越後街道)概要: 坂下宿(福島県会津坂下町)は越後街道(会津街道)鶴ヶ城の城下町から見ると最初の宿場町で、古くから交通の要衝として知られ、会津、喜多方、高田、越後と四方に街道が分岐していました。

当初の越後街道(会津街道)は喜多方市高郷地区付近から勝負沢峠を経ていましたが慶長16年(1611)の会津大地震により峠付近の街道が大破し再建不能となった為、新たな街道経路として坂下宿が整備されました。

さらに寛永元年(1624)、当時の会津藩蒲生忠郷に町割を嘆願し寛永2年(1625)に凡そ完成、それによると敷地間口3間、奥行30間を1区画(1戸)として上町、中町、下町の3町が形成され、宿場の長さは8町24間となり街道中央を縦断するように用水路を引き込み、北側に寺町を配置しました(その後、新町、茶屋町、新々町、鉄砲町が形成された)。

戊辰戦争の際には当時の会津藩主松平容保の義姉である照姫が坂下宿に退避したとの誤報を受け、中野竹子等婦女隊が坂下宿の法界寺に着陣、その後は衝鋒隊に加わり涙橋の戦い奮戦するものの竹子は討死、首は法界寺の境内に葬られています(享年22歳、辞世の句:武士の 猛き心にくらぶれば 数に入らぬ わが身ながらも)。その後は新政府軍の鶴ヶ城攻略戦で拠点の1つとして利用され八二醸造は野戦病院として多くの怪我人が収容されています。

坂下宿は会津藩から重要視され天明2年(1782)には郷役所が設置され天明8年(1788)には下荒井村郡役所配下の代官所が設置され周辺の行政、経済の中心となり家屋数や人口も確実に上昇しています。

明治11年(1878)にはイギリス人女性紀行家イザベラ・バードも坂下宿を訪れており著書「日本奥地紀行」で「私たちは馬を下りて、干魚をつめた俵がいっぱい入っている小屋に入った。干魚から出る臭いは強烈であった。」と表現しており、さらに周囲はじめじめした湿地帯で、黒い溝の匂いと当時は珍しかった外人をじろじろ見られた事でかなり不快だった事が記載されています。

越後街道:宿場町・再生リスト
会津坂下町:上空画像


会津坂下町:ストリートビュー
坂下宿
坂下宿:町並み
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坂下宿:名所・見所
諏訪神社
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光明寺
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貴徳寺
貴徳寺
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白
 


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