赤谷宿(越後街道)概要: 赤谷宿(新潟県新発田市)は越後街道(会津街道)の宿場町で、会津藩と新発田藩との藩境に隣接していた事で会津藩の赤谷番所が設けられ、人物改めや荷物改めなどが行われ、街道絵図でも「奥州会津入り口之御番所あり 入り切手とるべし 女切手改」と描かれています。
慶応4年(1868)の戊辰戦争の際には赤谷宿周辺が激戦地の1つとなり、逸早く奥羽越列藩同盟を離脱した新発田藩(本城:新発田城)が新政府軍を領内に招き入れ、越後街道(会津街道)を南下し鶴ヶ城を目指しました。
新発田藩来襲の報を受けると、赤谷宿は会津藩の越後街道北端にあたる為、派兵された会津軍が陣を張り8月14日から戦端が開かれました。
新政府軍は新発田藩をはじめ金沢藩、長州藩、広島藩、薩摩藩の連合軍で総勢1600名、砲門10門、対する会津軍は正規軍160名、民兵60名、総勢220名、さらに来襲に備えて築かれた胸壁13箇所、当初は会津兵の奇襲が功を奏し新政府軍を山内宿まで後退させています。
しかし、体制を整えた新政府軍が火力にものを言わせ押し返し混戦となり赤谷宿の住民も会津軍に協力し戦いましたが、8月15日奮戦むなしく敗退、会津軍は隣の綱木宿まで撤退し、赤谷宿も兵火により多くの家屋が失いました。
戦死者は双方合わせて70人にのぼり明治17年(1884)には赤谷宿の有志達による会藩戦死碑、明治44年(1911)には滝谷集落の人達が大慶寺の境内に戊辰役殉難者霊碑を建立しています。赤谷宿の町並みはその後に道路の拡幅工事をした為に一変しています。宿場から少し離れた場所に築かれた「赤谷の一里塚」は高さ4m、周囲29m、新発田市内に残されている唯一の一里塚として貴重なことから新発田市指定史跡に指定されています。
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