尼ヶ渕(東山温泉・会津若松市)概要: 案内板によると「 葦名家重臣の1人娘千穂姫は東国一の美女で、彼女には許婚がいましたが、領主直盛に見初められて悩み、湯川に身を投げてしまいました。その場所が「尼渕」です。運良く千穂姫は助け上げられましたが、智尚尼と名を改め、仏門に入ったといいます。」とあります。領主直盛とは芦名直盛と思われますが直盛が会津領主となって黒川城(現在の鶴ヶ城)を築いたのは至徳元年(1384)、という事はこの伝説は室町時代前期頃の話のようです。千穂姫の父親である大町左京盛胤も良く解りませんでしたが大町氏は伊達家の家臣団に名を連ねています。天正17年(1589)に行われた摺上原の戦いでは芦名家は伊達政宗に大敗したのですが、そもそも芦名家は伊達家派と佐竹家派に分かれて戦っている事もあり、もしかしたら伊達家派として行動してその後家臣になったのかも知れません。盛胤という名は猪苗代城主、猪苗代盛胤で見ることが出来、芦名家の家臣でもあった為、一番しっくりきますが、年代的に戦国時代なことから芦名直盛とは接点がなかったと思われます。千穂姫の許嫁とされる簗田衛門(直盛の小姓)も謎の人物で簗田という姓は直盛に従い会津に随行した簗田藤左衛門と関係があるように思われます。ただし、簗田家は武家では無く商人で、幕末まで会津商人を束ねる役職を歴任しています。千穂姫は許嫁との操を重んじて21日にもわたり湯上羽黒山三社権現の奥の院(現在の湯上羽黒山神社)に篭り祈願しましたが念願叶わず羽黒川(湯川)に身を投げました。それを助けたのが軍荼利明王、妙見菩薩、観音菩薩の三尊とされ、これは関係が深いとされる出羽三山の羽黒山五重塔(山形県鶴岡市)の旧本尊と奇妙に一致しています(神仏分離令後は大国主命)。助けられた姫は湯上羽黒山三社権現の別当寺院である東光寺(現在は温泉神社)の行智上人に帰依し「智尚尼」として仏門に入りました。
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