松平容保碑(飯盛山)概要: 松平容保碑は飯盛山に設けられた白虎隊の墓の近くに建立された石碑で、案内板によると「 戊辰戦役当時自刃した白虎隊士の殉難忠節に対し九代藩主松平容保公が次の弔歌を詠まれたを現河東町八田野の篤志家八田宗吉氏がこの碑に刻み建てたものである。「幾人の涙は石にそそぐともその名は世々に朽じとぞ思う」源容保 」とあります。松平容保は実質的に最後の会津藩(藩庁:鶴ヶ城)の藩主で京都守護職就任した事で幕末の動乱に大きく関わることになります。当初は幕府と共に公武合体を推進していた事もあり孝明天皇から絶大な信頼を得ていましたが、尊皇攘夷を掲げる長州藩と激しく対立し、その遺恨から恭順姿勢が認められず会津戦争へと巻き込まれました。白虎隊は青少年で組織していた事から当初は予備兵力として補給などの後方支援などが目的とされましたが、戦局が悪化すると各地に配属され、その内一番隊は松平容保護衛の任を受けるなど関係が深かったと言えます。一般的に悲劇の象徴になっているのが二番隊で慶応4(1868)年8月23日の戸ノ口原の戦いで新政府軍に敗れると飯盛山まで敗走し、そこで燃え盛る城下を見て20名が自刃しています(飯沼貞吉だけは一命を取り留めた)。
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-財団法人会津弔霊義会
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